大判例

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福岡地方裁判所 昭和48年(ワ)1020号 判決 1977年3月29日

原告 甲野一郎

同 甲野花枝

右両名訴訟代理人弁護士 有富小一

同 濱田英敏

被告 乙山次郎

右訴訟代理人弁護士 山本石樹

主文

一  被告は、原告両名に対し各金五〇万円およびこれに対する昭和四八年一〇月二四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告両名のその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用はこれを五分し、その四を原告両名の連帯負担とし、その余を被告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告両名に対し各金一四三一万三七〇四円およびこれに対する昭和四八年一月二二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  1項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  本件診療契約の締結

原告甲野一郎・同甲野花枝は訴外亡甲野花子(昭和二七年三月三日生、以下花子という。)の実父母であり、被告は肩書住所地において医院を開業している医師である。

昭和四八年一月一五日右花子はその胎内の胎児を人工的に体外に排出し、同女を非妊娠状態の健康体に回復せしめる手術およびこれに伴う診療をなすべきことを被告に依頼し、被告はこれを引き受けた。

2  本件人工妊娠中絶処置の施行と花子の死亡

花子は、前同日被告医院に入院し、同月二〇日午前一〇時三〇分ころ胎児が排出されたが、同日午後一〇時ころ容体が急変し翌二一日午前三時二〇分死亡した。

3  被告の債務不履行責任

被告は前記契約の債務者として、債務の本旨に従い、善良なる管理者の注意をもって本件人工妊娠中絶処置をなすべき義務があるのに、以下述べるとおり右注意義務を怠り、その結果花子を死亡せしめるに至ったものである。

従って被告はその債務不履行責任に基づき、花子の死亡により生じた損害を賠償すべき義務がある。

(一) 中絶術前の全身状態検査の懈怠

妊娠中絶にあたっては妊婦の既往歴は勿論、現在の健康状態について十分確認をし、胸部聴診、呼吸、脈搏、血圧測定、検尿(蛋白、糖、ウロビリノーゲン)血液(血液型、貧血傾向について血色素量の確認)等が必要であり、更に心電図、胸部X線写真等をするのが望ましいとされており、このくらいの検査を面倒に思う医師は人工妊娠中絶を行なう資格がないとさえ云われる。

被告は花子の死因について体質的な要因による異常ショックによる心臓マヒもしくは羊水栓塞等の可能性を主張するが、まったくナンセンスである。

花子の入院当時の状態は極めて健康であり、既応歴もなく、妊娠状態も正常であって、女性として陣痛、胎児分娩という当然の生理現象に耐えられない程の虚弱体質でなかったことはあきらかであり、特異体質故のショック死の推論は云い逃がれにすぎない。万が一あったとしても花子の診察を十分にし個体差の確認を徹底しておけば、本件の如き不幸な事件は避け得たのであり、被告の責任である。

また羊水栓塞症は破膜ないし卵膜の裂け目の存在が絶対的な条件となっており、入院当時妊娠五ヶ月の花子にはそれまでかかる徴候はまったくなかったのであるから、破膜卵膜の損傷は被告の子宮への作用である中絶術しか考えられず、被告の免責の根拠にはなんらなり得ないものである。

(二) 中絶術選択における善管注意義務違反―特に塩酸キニーネ(以下塩キと略す。)、ヒマシ油併用方法の危険性について

妊娠五ヶ月はすでに妊娠中期に入り、胎児は身長一八ないし二七cm、体重二八〇g、児頭は全長の三分の一にも及ぶ程成長している。しかしそれを包んでいる子宮の状態はまだ妊娠末期におけるそれのように熟化しておらず、子宮頸管部についてこれを見れば、子宮口開大による胎児の脱落をなくすため極めて緊縮状態にあり、その伸展性はとぼしい。妊娠末期になれば子宮頸の結合織は浮腫状となり、線維は著明に粗鬆化して頸管の開大態勢が整う(熟化という。)。この熟化に関与するのはエストラジオール、リラキシン、プロゲステロンなどのホルモンである。したがって中期の妊娠中絶について胎児の大きいこと、子宮頸口の未熟なことのため、薬物による陣痛誘発による娩出だけで中絶の目的を達することは極めて危険であるとされている。

また陣痛誘発剤として塩キを使用することはきわめて危険であるため、現在では、デリバリン、アトニンC、ハルトマン等の陣痛促進剤が開発されている。

すなわち塩キについて日本薬局方解説書によればその常用量は一回〇・二gで一日〇・六gとされており、抗マラリア、解熱、鎮痛作用の他に筋弛緩、子宮収縮作用があるが、陣痛促進の目的に用いるのは危険で、特に血中濃度一・二mg/dl以上では重症となり胃腸障害、聴力障害、視力障害、頭痛興奮、せん妄状態など中枢症状、血液障害などをおこす危険性の高い薬物とされている。

仮に塩キ、ヒマシ油を服用させることによる中絶が可能としても、本件について花子に対して施した被告の加療は適切であったかといえば決してそうではない。

すなわち右薬物による陣痛誘発は出来たとしても、それに応じて子宮頸が十分に拡張し、胎児を娩出し得る程開大するのではない。そのため中期中絶には子宮頸管の拡張のための施術がなによりも必要であり、ヘガール拡張器、ラミナリヤ等で子宮口を二指以上挿入可能状態まで拡張し、二〇〇ないし二五〇mlの内容を有するゴム袋(メトロ)を子宮内に挿入したうえその中に生理食塩水を注入しその口を結紮し、外よりゆるやかな牽引をすることによる頸管の拡張効果および子宮下部刺激による陣痛発来作用により胎児の娩出をはかる、いわゆるメトロイリンテル法が最もよいとされている。

本件において被告は、薬物使用のほかヘーガル二〇号(外径一八mm)による拡張のうえラミナリヤ四本(長さ、大きさ不明)を子宮頸に挿入し、ブジーによる子宮内壁刺激による陣痛促進を試みた。しかしながらそれら施術で五ヶ月の胎児が自然娩出することは数度の経産婦や中絶術を頻繁に受けているものならば別として、花子のような初妊娠の者には殆んど期待しえないのである。従って一月二〇日に陣痛が起った時、花子の子宮頸の状態はきわめて開大不十分なものであった事は十分推測しうるところであり、そのまま放置すれば過強陣痛によるショック、頸管裂傷等が考えられるため、被告は鉗子によって胎児の躯幹、頭部等をちぎり引き出したのである。被告の自然娩出の主張は妊娠五ヶ月の母体、胎児の態様、医師の措置の内容からまったくでたらめである。更に五ヶ月胎児は死胎として火葬処理する事につき市役所への届出義務があるが本件にはこれがなされておらず、原告一郎が花子の死を知らされ被告医院を訪れた際「死胎はグチャグチャ」で見せられないといって、被告がその引渡しはおろか見せることすら拒否した事実からして、胎児を引きちぎり排出させたことも事実である。その際、被告は鉗子の使用に際し粗暴な扱いをし慎重を欠いたために頸管裂傷(裂傷が深く頸管全長にわたり更に膣壁や腹膜にまで波及した可能性がある)を、更に子宮内部の胎児の遺残肉片を探るあまり子宮穿孔をおかし出血多量の事態をまねいたことが推測される。

(三) 入院から胎児娩出までの全身管理の懈怠―塩キ、ヒマシ油の副作用についての注意を怠っていること

被告は花子が妊娠五ヶ月であると診断し、自然娩出による中絶を試み、花子に四八年一月一六日から塩キとヒマシ油の継続投与をした。しかしその投与の態様についてはきわめて簡単な記載がカルテにあるのみである。薬物学的には分娩誘発に塩キ、ヒマシ油を使用することは禁止されていないかも知れないが、前述の如く危険な薬物であるからそれを服用させるについては十分な妊婦の観察が必要であるのに、被告はこれを怠っている。ヒマシ油の浣腸ないし投与をし、更に引き続き塩キ〇・一g宛一時間毎に六回内服させれば陣痛が数時間後におこるが、被告は花子を入院させ何日目に陣痛を起こさせるべく計画し右両薬の服用をさせたのかすら明確にせず、漫然と与えた。すなわち塩キについては一月一六日〇・八g、一七日〇・八g、一八日不明、一九日〇・四g計二・〇gを四日間にわたり与え、ヒマシ油については一六日に二〇g、一七日に量不明、一八日同不明、一九日二〇gを投与している。このヒマシ油の投与量は日本薬局方解説書によれば常用量の最多量にあたり、入院から二〇日の中絶手術までの間たえず下剤をかけられた状態で給食も十分に摂取していないし、頸管拡張のためラミナリヤ四本が挿入され熱発気味で花子の一般状態はかなり低下していた筈である。しかるにこの状態の花子に四日間にわたり二g余の塩キを漫然投与しており、その間塩キの副作用の発生の危険性について十分配慮しなければならないのになんらそれをしたあとがない。

しかも塩キについては被告としては、〇・八gは陣痛誘発量の投与であることの認識があったことがあきらかである。しかるに翌一七日も同じことをくりかえしている。一八日には塩キの投与について何らの主張がないが漫然前日同量を投与したのである。それは被告が一九日になって花子の三八度の熱発をみてはじめて塩キ服用を中止させたこと、塩キの投与につきさして危険性の意識をもっていなかったこと、被告は一六、一七、一八日を通じて花子の一般状態を慎重に観察しておらず、何ら変化なしとの認識しか有していなかったことからして明らかである。一九日体温三八度の発熱があったとカルテに記載あり、被告もその旨主張するが、被告はこれについて原因を究明しておらず、クロラムフェニコール二五〇mgを投与したのみである。この熱発は塩キの多量投与、ヒマシ油の乱用による一般状態の悪化のための疑いが極めて強いものである。そのために被告は一九日になり塩キの投与をやめている。

以上のように、入院以来四日間に一般状態の悪化をもたらす諸々の要因がありながら、被告は二〇日の手術前に何らの身体検査、血圧、血色素、脈搏等検査確認することなく、娩出手術を開始している。したがって事前の妊婦の一般状態の確認をしておれば当然輸血、増血剤の注射等によって手術に十分耐えうる健康状態にして中絶手術を開始しえたはずであるのにこれを怠っているので善管注意義務を怠っており債務不履行の責を免れない。

(四) 中絶術後の患者管理の懈怠―被告は花子に対する中絶術後の一般状態管理を十分に行なっていない。

中絶術を施した患者が直後貧血症状をおこす傾向にあることは、それが観血手術であること、弛緩出血、頸管裂傷、子宮穿孔等の可能性があることからきわめて一般的なことである。

個体差もあるが通常出血量が一〇〇〇ml以内であれば生命をおびやかすことは少ないが、すでに一五〇〇ml以上に達すると生命に危険が切迫する。したがって出血量を時間的に正確に計算することが大切である。貧血症状としては顔面蒼白、あくび頻発、口渇、胸内苦、嘔気、嘔吐、視力減退などを訴え、脈搏は頻数(一二〇以上)微弱、呼吸促迫、血圧下降し不安、興奮状態となって遂に意識消失しショックに陥り死亡する。

中絶術を受けた直後の患者には右危険性が多分に存するので、医師としては一両日間の患者の状態につき十分な観察をする注意義務がある。術直後における血圧、脈搏、術中の出血量等を確認しておかねばならないのに被告はこれを怠っている。術中から花子は痛みを激しく訴えていたのであるが、被告はこれが薬物で誘発された陣痛によるもの、子宮収縮にともなうものと極めて軽く考え、それが前述したような手術中のミスにもとづくものでないかと考えることをせず、花子の痛みの訴えを無視している。花子が部屋にもどってからも丙川が花子にかわって要求し鎮痛剤をもらってきてのませた程であり、午後一〇時過ぎにA準看護婦が花子の異常に気づき診察を求めるまで何ら観察加療をしていない。本件の場合術中にかなりの出血があり、其後も丁字帯をせねばならぬ程出血していたのであるから、血圧測定を頻繁に行い、たえず観察者をつけ、最悪の場合にそなえて輸血の準備をしておく必要があったのに、被告はまったくこれをしていない。観察体制については患者もしくはその付添人がいればそれからの通報に応じて観察に出向く程度であり、本件術後は被告は二、三の来院者の中絶手術を行い、B、C、Aらの看護婦ないし準看護婦はその介添に配置され、病室の花子の観察はまったくなされておらず、わずかに午後六時看護婦が丁字帯の交換のため花子を見たにすぎず、それまで一、二時間毎に血圧等を測定した形跡はなく、それから午後一〇時過ぎまで当直のA準看護婦(しかも資格をとりたての一七才の少女である。)が詰所で待機していたにすぎず、花子からのインタホーン利用がなければまったく観察しないという状態であった。

被告が自らもしくは看護婦をして一時間毎又は少くとも二時間毎の観察をしておけば、午後一〇時に花子の一般状態が極端に悪化した状態になる前に適切な措置がとれたはずであるのに、これをしなかったのは被告の責任である。

午後一〇時過ぎにAが発見した際の花子は、チアノーゼを呈し脱水状態になっていたがかすかに意識があった。これは貧血性のチアノーゼ、脱水症状にほかならない。被告は午後一〇時花子のところにかけつけた時に出血性のものであることに気がついていたと思われる。何故ならばその時止血剤カチーフNを注射している。しかしながら血圧測定もしておらない、輸血の手配もしていない。単に強心剤エホチール、テラプチークや補液としてリンゲル等を注射したのみである。花子が貧血状態であったことは、顔面が紫色(いわゆる血の気が失せていたこと)となり、爪の色も白っぽくなっていたことや、のどがかわくためジュースをのんだこと等からもあきらかである。発見した一〇時当時既に花子は不可逆性に近いチアノーゼ、脱水状態になっていたと考えられる。ほんの一時的なものであれば被告が一時間余も付添って加療するはずがなく、丙川の電話に対しAが切迫した声で来院を乞うはずがない。

仮に軽いものであったとしても、その時点で輸血をし造血剤の注射をし血圧上昇の方法をとっておれば死の発生は避けられた筈であるのに、被告はこれを怠り、チアノーゼも引いていないのに病室を退出している。従って二〇日午後一〇時以前の被告の診療行為に何ら落度がないにしても、二〇日午後一〇時過ぎからの被告の花子に対してなした行為は中絶手術を受任した医師として十分な注意義務をはたしたものと云えず、そのために花子は死亡したのであるから被告の責任は免れない。

4  損害

(一) 逸失利益

花子は昭和四七年三月一五日○○女子短期大学を卒業し、栄養士の資格を有して株式会社○○○○○に勤務し、死亡当時満二〇才一〇ヶ月の健康な女性であった。花子は本件事故がなければ、なお四七年間就労可能であったはずである。

ところで花子の逸失利益算出の根拠としては、昭和四八年度賃金センサス第一巻第一表の産業計、女子労働者、短大卒の二〇ないし二四才の年間収入八四万九九〇〇円を用いるべきである。花子については株式会社○○○○○の給与証明があるが、これによると一ヶ月給与が四万円弱(賞与なしとして)であり、たとえ寮費、食費の補助があったとしても短大卒の女子労働者の平均を下まわる給与がそれ以降も続くはずはなく、逸失利益算定の基礎には少なくとも賃金センサスの金額をあてるべきである。

そこで前記年間収入から生活費として五割を控除したうえで、年五分の割合による中間利息を控除すべく、四七年間のホフマン係数二三・八三二を乗じて得られた花子の逸失利益の事故時の現価は一〇一二万七四〇八円である。

(二) 慰藉料

国民が医師によせる信頼は絶大であるが、被告はこれをよいことにきわめてずさんな治療を行い、将来に大きな夢と希望を持っていた花子の生命を奪ったものであるから、花子の精神的苦痛を償うには一五〇〇万円が相当である。

(三) 相続

原告両名は花子の実親であり、被告に対する花子の前記(一)(二)の損害賠償請求権をそれぞれ二分の一宛相続した。

(四) 葬儀費

花子の葬儀費用のうち五〇万円は被告が負担すべきものである。

(五) 弁護士費用

被告は原告らの請求に何ら応じようとしないので、やむなく原告らは本訴に及んだものであるが、事案の複雑さ等から原告ら訴訟代理人両弁護土に本件訴訟遂行を委任した。その費用は各代理人に一五〇万円宛が相当であり、これは当然被告が負担すべきものである。

5  よって原告らは被告に対し、債務不履行による損害賠償請求権に基づき、それぞれ一四三一万三七〇四円およびこれに対する花子の死亡後である昭和四八年一月二二日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実については、死因に関する主張を争うが、その余の事実は認める。

被告は死因を明確にするために剖検を要望したが、原告らの拒否によってついに死因は明確にできなかった。しかし被告が医師として一応考え得るのは、花子の体質的要因に基づく異常なショックによる心臓マヒあるいは予測し難い羊水栓塞症である。

3  同3ないし5の主張は争う。

三  抗弁

被告は本件妊娠中絶手術及びその前後を通じて善管注意義務を尽し、債務の本旨に従った履行をなしたものである。すなわち、

1  中絶術前の全身状態検査の完全な履行

中絶前の全身状態は十分検診しており、このことは医師として当然のことである。

妊婦の既往歴・妊娠歴・月経関係等問診・触診で確め、身体は小柄であるが中肉よりやや肉づきよく一般状態良好であってこれまで病気をしたことはないと言われた。

格別の異常はないので、心電図・血液検査の必要はないと認めてこれは行っていない。最終月経は昭和四七年九月一三日から一五日までとのことで、妊娠五ヶ月初期であると認められた。

妊娠五ヶ月といえども初期であり胎児の成長は身長一七cm余、体重一五〇gの程度と考えられる。

2  中絶術の適正な施行

(一) 塩キ・ヒマシ油の使用やヘガール・ラミナリヤの点は悉く従来の経験に照らし妥当適応であり決して失当ではない。

(二) しかも、その施行は以下に詳述する経過を経ているもので、適正な手術が行われたものである。

主治医は被告であるが、終始助産婦B、準看護婦A、その他が介助に当ったものである。

昭和四八年一月一六日午前一〇時頃ヘガール拡張器で子宮頸管を拡張してブジー一本を挿入したが破水しなかった。昼食後ヒマシ油二〇gを服用させた。

三十分後から一〇倍に溶いた塩キ〇・二gを二時間置きに四回にわたって投与したが破水陣痛がなかった。

翌一七日午前一〇時頃ヘガール拡張器でブジー一本を交換挿入したが破水しないので、塩キを前日同様二時間置きに四回投与した。更にヒマシ油も与えたが午後に下腹部が少し張る旨の訴えがあった。

一月一八日午前一〇時頃ヘガール二〇号を用い、ラミナリア四本を挿入したが破水しないので、ペニギンC錠一錠を腔内に挿入し、ガーゼタンポンを施したが下腹の張る程度であった。

一月一九日ラミナリアを外してブジー一本を挿入し、更にヒマシ油二〇gを投与し前同様の塩キを二時間置きに二回投与したが、午後体温三八度となったのでクロラムフェニコール(抗生物質)二五〇mgを投与することにし、六時間置き四回服用させ塩キは中止した。その夜腹痛を訴えたのでノブロンA一・五ccを皮下注射した。

一月二〇日午前一〇時自然破水を見たので分娩室に入れ三〇分後に死胎児を自然娩出した。その際まず胎児の一本の足が出かかったので被告は直ちに胎盤鉗子で軽くこの足をはさんで、死胎児全体を娩出したのである。決して胎児の頭部・躯幹をちぎり出したのではなく、グチャグチャになっていたのでもなく、引きちぎったのではない。自然娩出の状態であった。そして直ちにスパチーム(子宮収縮剤)を静注し午前一一時頃いわゆるあと産も排出した。

以上の次第であって、被告は原告ら主張のような粗暴、不注意な取扱いはしていない。尚娩出後死産届をして火葬に付すべくその用意として死産届用紙に「父丁村太郎」「母甲野花子」として両人了解の上自署してもらい届出の用意をしていたものである。

しかし、花子の死亡直後にその遺体は原告らによって大分県の郷里へ運ばれ、丁村太郎も立去ったため、右届出に印章捺印がなく届出手続が不能となったことから、そのまま死胎児を所定の処理業者に引渡した次第である。

(三) 入院後死胎児分娩迄妊婦の全身管理は十全をつくしている。その故に一月二〇日午前一〇時過ぎ頃に無事娩出終了しているのである。

3  中絶術後の患者管理の完全

そして分娩室から病室に移した後、ケミセチンゾル一g等を筋注し感染予防の処置も行った。午後六時検診の際体温は三七・四度であった。

本件においてメス等は使用していないので、いわゆる観血的手術ということはできない。本件患者に娩出時多量出血は認められない。産婦は娩出後一〇時間はきわめて経過順調であった。

しかるに、同夜一〇時頃に至り頬部口唇にチアノーゼを呈したので、被告において診察したところ、意識は明瞭であるが循環器障害と脈搏の触知困難の状態であったので、循環不全の疑をもち、直ちに応急措置として、

エホチール一〇mg筋注(強心剤)

カチーフN一〇mg皮下注(止血剤)

アレルギン一cc皮下注(抗ヒスタミン剤)

ブドウ糖二〇%二〇cc

コカルボキシラーゼ二〇mg 混合静注

ビタミンC一〇〇mg

更に

テラプチーク三cc静注(強心剤)

リンゲル一〇〇〇cc 大腿部点滴筋注(補液)

スプラクター五〇〇単位

を施し、夜中零時頃まで看病につとめた。そのうち苦悶苦痛冷寒も消え意識も明瞭で血圧も九〇~四〇と恢復し、重篤なショック症状もないので、付添の丁村太郎に対して夜中に変ったことがあれば直ちに知らせるよう告げたうえ、被告は一月二一日午前一時半頃病室から出て経過を見ることにしていた。

午前三時二〇分頃丁村から容体がおかしいとの連絡を受けて直ちに病室に入ったところ、病室内で付添の丁村が寝入ってしまった間に患者の病変が来たとのことで直ちに診ると、まだ体温は少しあったが既に呼吸も心音も停止し瞳孔散大で大変驚き、直ちにビタカンファー一ccを皮下注射した後、人工呼吸を三〇分したが恢復の兆しなく遂に絶命に至った。

四  抗弁に対する認否

被告に債務不履行責任がないとの主張は争う。

第三証拠《省略》

理由

一  当事者間に争いのない事実

花子が昭和四八年一月一五日にいわゆる人工妊娠中絶処置を受けるために被告経営の医院に入院し、同月二〇日午前一〇時三〇分ころに胎児が排出されたこと及び同日午後一〇時ころ花子の容体が急変し、翌二一日午前三時二〇分に同女が死亡したことは当事者間に争いがない。

二  本件人工妊娠中絶処置の経過

《証拠省略》を総合すると次の事実が認められる。

1  花子(昭和二七年三月三日生)は、○○大学理学部化学科専攻の学生丁村太郎(昭和二七年七月八日生)と昭和四六年夏頃から肉体関係をもつ間柄にあったが、昭和四七年暮頃から花子に妊娠の徴候が生じた。しかし、花子は短大卒業後会社勤めをして間がなく、丁村太郎はまだ大学生の身分で両名は結婚もしていないところから、両名は花子が人工妊娠中絶をうけることに意を決し、昭和四八年一月一三日、花子は丁村太郎と共に被告の医院を訪れ診察を受けたところ、妊娠五ヶ月の初期と診断された。花子は、被告あるいは助産婦B(以下B助産婦という。)から中絶は避けるように説かれ、一旦は帰宅したが、丁村太郎と話し合った結果中絶手術を受けることを決意し、同月一五日夕刻五時に被告の医院に入院した。なお入院の際に持参すべきものとしては脱脂綿と丁字帯のみでよいとの指示を受けていたのでそれらを持参した。

2  被告は、問診・視診の結果花子が健康体であることを確認し、心電図、血液検査、血圧検査は必要ないと認めて実施せず、花子が既に妊娠五ヶ月目に入っていることから、中絶処置が母体に及ぼす危険性を考慮して、可及的に自然分娩に近い方法で胎児を娩出することがより安全であると考えたので、ヘガール拡張器(子宮頸管を拡張する金属製器具)やラミナリア(子宮頸管を拡張する海藻製器具、以下単にラミナリアという。)で子宮頸管を徐々に拡張し、ブジー(陣痛誘発のため子宮腔内に挿入するゴム製器具)を挿入する一方、陣痛誘発剤を経口投与することによって陣痛を生ぜしめて胎児を娩出させるという自然分娩に近い方法によって、花子の人工妊娠中絶処置を行うこととした。

一月一六日には、ヘガール拡張器で子宮頸管を拡張してブジー一本を挿入し、ヒマシ油二〇gを投与し、その三〇分後から一〇倍に溶いた塩キを二時間ごとに〇・二gずつ四回にわたり投与したが、花子には陣痛、破水は起こらなかった。

翌一七日には、被告はブジー一本を交換挿入し、塩キを前日同様四回投与して更にヒマシ油も与えたところ、花子は下腹が少し張る旨訴えた。

翌一八日にはラミナリア四本を挿入し、更にペニギンC錠一錠を花子の膣内に挿入し、ガーゼタンポンを施した。(尚、この日塩キの投薬は副作用の弊害を考慮して休止した。)

翌一九日に被告がラミナリア四本を外してブジー一本を挿入し、更にヒマシ油を二〇g投与してその三〇分後に塩キ〇・二gを二時間おきに二回投与したところ、夕刻に花子の体温が三八度まで上昇したので、被告は塩キの投与を中止し、子宮内の感染予防のためクロラムフェニコール(抗生物質)二五〇mg四錠を投与した。その日の夜に花子が腹痛を訴えたので、被告はノブロンA(鎮痛剤)一・五ccの皮下注射を花子に施した。なお花子には同日の昼ころから軽度の陣痛らしき痛みが生じていた。

3  翌二〇日朝方に陣痛が強まり、午前一〇時ころに破水があったので、花子は分娩室に入れられて分娩台にあげられたが、その際、膣口からすでに胎児の足が一本出ているのがB助産婦によって発見されたので、被告は鉗子で胎児をはさんで引き出し、同一〇時三〇分(死)胎児娩出を無事終了した。その後被告がスパチーム(子宮収縮剤)を注射したところ午前一一時ころにはいわゆる後産も排出されたので、約三〇分間様子を観察した後花子を病室に戻した。その後被告は花子にケミセチンゾル、ノブロン(鎮痛剤)等の注射を施し、アドスチルUT錠(収縮止血剤)を投薬した。病室において花子は腹部の痛みを訴えたが、看護婦には格別異常がある痛みとはうつらず、B助産婦がその痛みをやわらげる目的で花子に腹帯を巻いたところ、花子の痛みも少し止み、その際花子の膣口付近の出血状態を見たが異常はなかった。同日夕方五時半頃には婦長C(以下C婦長という。)が花子の丁字帯の中の綿花が汚れていないかどうか確認したが、ちょっとしか汚れていなかったので、新しい綿花と交換した。この頃まで花子の容体は順調であった。なお花子に付添っていた丁村太郎は花子が腹帯をしてもらい少し痛みも止んだのをみて、クラブ活動の定期演奏会のために午後零時三〇分ころ病院を出た。花子の病室のベッドの枕許には連絡用のインタホーンが備えてあったが、被告、看護婦らが花子から呼ばれたことは一度もなかった。

4  同日午後九時三〇分ころに当夜の宿直の準看護婦A(以下A看護婦という。)は一人で便所に行って帰ってきた花子をみかけたが、同女から寒気を訴えられたので、同一〇時ころ湯たんぽを入れかえた。その時、意識はあったが、花子の唇の周囲が紫色になっており顔面は紅潮気味であり、見える部分に発疹がでていることに気付いたので、様子がおかしいと感じて被告に連絡した。そこで被告はただちに花子を診察したところ、口唇、手足の爪、頬にチアノーゼを認めたが、花子のベッドが出血で汚れていたようなこともなかった。又、花子は手足の寒冷を訴え、その脈搏は触知困難なほどであり、血圧は七〇―四〇と低下傾向を示したが(尚、被告は花子の本件手術前にはその血圧測定を実施していない。)、他方腹痛等の訴えはなく、意識も明瞭であったので、血液の循環不全と診断し、その改善のために応急措置としてエホチール(血液循環を整える作用を有する強心剤)一〇mgの筋肉注射、カチーフN(止血作用を有するビタミンK剤)一〇mg及びアレルギン一ccの各皮下注射、ブドウ糖二〇%二〇cc・コカルボキシラーゼ二〇mg・ビタミンC一〇〇mgの混合静脈注射、テラプチーク(強心剤)の静脈注射、リンゲル一〇〇〇cc及びスプラクター五〇〇単位の大腿部点滴筋肉注射(補液)を施した。その結果、チアノーゼは存続したが、冷感、腹痛等は訴えなく、意識も明瞭で血圧も九〇―四〇と回復の傾向にあったので、経過をみることにした。一方丁村太郎は被告から指示をうけたA看護婦からの電話連絡により午後一一時すぎに被告医院に駆けつけ、以後花子に付添っていたが、被告の応急措置中花子は喝きを訴えて、水少量とジュース一本を飲みほした。そして、被告は、翌二一日午前一時すぎに、リンゲル液のびんを新たなものと交換したうえで、丁村太郎にリンゲル液がなくなったり、何かあったら連絡するようにと告げて、A看護婦と共に病室から引き上げた。

5  病室に二人きりになって、丁村太郎は花子に眠るように促したところ、花子も丁村太郎に対し「疲れたでしょう。休んでもいいよ。」と言ったので、丁村太郎は、花子が苦痛を訴えるわけでもなく、意識は明瞭なうえ、普段と違ってジュース一本を飲み干したことなどから特別心配するほどの状態にはないとの判断のもとに、横になってすぐ寝込んでしまった。そして同日午前三時すぎ丁村太郎がふと目をさまして花子を見たところ、花子は布団を胸のところまではぎ、呼吸を停止していた。びっくりした丁村太郎は被告と看護婦を至急呼び、その手当をしてもらったが、花子は既に死亡していて蘇生するに至らず、被告も同日午前三時二〇分花子の死亡を確認した。被告は花子の死因を血液循環不全による心臓麻痺と判断したが、それが何を原因として生じたのか皆目見当がつかなかった。

三  花子の死因と因果関係及び被告の任務懈怠(不完全履行)について

《証拠省略》によれば、花子が死亡した日である昭和四八年一月二一日午前六時三〇分ころ被告経営の医院に駆けつけた原告両名は、被告から死因を明確にするために花子の遺体を解剖したい旨の申し出を受けたが、これ以上実子である花子の痛ましい姿をみるに忍びず、それを拒絶したので、遂に解剖はなされなかったことが認められる。

そこで本件においては、被告の施した一連の処置、投薬内容、入院から死亡に至るまでの花子の症状の経過等の間接事実の積み重ねによって、原告主張の如き原因のために花子が死亡したものであったか否か、しかもそれが被告の行為又は不行為に起因したものとかなりの蓋然性をもって推認することができるか否かが、逐一検討されねばならない。

1  中絶術前の全身状態検査の懈怠の有無と因果関係

原告らは、先ず第一に被告が花子の中絶手術前に花子の全身状態の検査が十分になされていなかった旨主張する。

確かに、先に述べたとおり、被告は妊娠五ヶ月に入っていた花子の問診・視診の結果同女が健康体であることを確認したことは認められるが、原告ら主張のように、更に、呼吸・脈搏・血圧測定、検尿、血液検査(血液型、貧血傾向について血色素量の確認)、心電図、胸部X線写真撮影等の検査をなしたと認めるに足りる証拠はないし、却って心電図、血液検査、血圧測定がなされていないことは先に認定した。しかして、心電図、胸部X線写真撮影といったことまでの検査が人工妊娠中絶の場合に一般的に必要なものであるかどうかの証拠もないが、少くとも脈搏・血圧測定、検尿、血液検査が一般的に必要とされることは経験則の教えるところであり、かかる見地からいえば、被告の中絶手術前の花子の全身状態の検査が十分になされたとの被告の主張には疑問があるといわなければならない。然らば、被告の右不作為が花子の死因との関係で因果関係をもつかどうかが次に問われなければならないが、原告らはこの点につき花子の死因との関係で具体的な主張を展開していないので、当裁判所もこの程度でこの問題をしばらく措き、次の点に検討を進めることにする。

2  中絶術選択における善管注意義務違反の有無と因果関係

原告らは、第二に被告が花子に施した妊娠中絶手術は、塩キとヒマシ油併用方法をとった点において危険であり、仮にそうでなかったとしても子宮頸管の拡張が不十分なまま胎児を無理に娩出させた結果、頸管裂傷、更には子宮穿孔をおかし出血多量の事態をまねいて花子の死亡をきたした点に、中絶術選択における善管注意義務違反があった旨主張するので、順次検討する。

(一)  塩キ・ヒマシ油併用方法の危険性の有無

成立に争いのない甲一二号証(第八改正日本薬局方第一部解説書、一九七一年版)によれば、塩キの常用量は一回〇・二g、一日〇・六gとされており、抗マラリア作用、解熱作用の薬効があり、濫用すると溶血作用をおこして血尿、血便を排出することがあり、知覚鈍麻、意識こん濁をおこし、めまい、頭痛、耳鳴り(いわゆるキニーネ酩酊)を招き、難聴及び弱視を時として一定時持続することがあり、特異体質者には紅斑、湿疹、限局性浮腫、皮下溢血、強い痒感などを発し、非常に大量に投与すると、こん睡、まれに痙れんを誘発し、心臓衰弱とあいまって虚脱の症状をおこす等の副作用が発現するが、致死量は通常一回約八ないし一〇gであって、一日量一gを五ないし一〇回に分服させると効果も確実で副作用は少ないことが認められるところ、《証拠省略》と経験則によれば塩キは陣痛促進剤としても用いられ、ヒマシ油二〇ないし三〇gを併用すれば一層有効といわれており、被告も永年にわたり多数の中絶手術に塩キ・ヒマシ油併用方法を用いて事故がおきた例がなかったことが認められ、以上の事実を総合すると、被告がとった塩キ・ヒマシ油併用方法そのものが一般的に危険であるとはいえず、この方法が一般的に危険であるとする原告らの立論は採用しえない。

(二)  子宮頸管の拡張(開大)不十分のまま胎児娩出はなされたか

《証拠省略》及び前記認定事実を総合すると、花子は出産を経験したことのない妊娠五ヶ月の女性であったが、出産未経験者の子宮頸管は固く、その拡張(開大)は容易でないうえ、児頭の前後径は約五ないし七cmもあり、子宮頸管を三ないし五cm(二、三横指)以上開大しなければ胎児を牽出することはできないから、余程長時間をかけて緩慢な子宮頸管拡張を行なわないと頸管裂傷をおこし大事に至る場合があること、妊娠三ヶ月までの早期中絶の場合に比し、妊娠四ないし七ヶ月の中期中絶の場合は格段に危険であり、中絶術を回避することが先決とさえいわれていること、中期中絶法としては薬物使用法、非観血的方法、観血的方法(膣式帝王切開術)の三大別が可能であるが、実際には非観血的方法と薬物による陣痛誘発の併用法が広く使われているのが現状であり、効果も大きいこと、非観血的方法の中には更にブジー法、メトロイリンテル法、日母式中期中絶法(ラミナリアーメトロイリンテル法ともいえるもので、日本母性保護医協会の中期中絶委員会で、最も妥当と思われるとした中期中絶の方法で、時間をかけてゆっくりと頸管を十分に拡張(開大)し、メトロイリンテルを用いて頸管開大をさらに進めた上で胎児の自然娩出を待つこと等を基本にしている。)等があるが、被告の花子に対してとった方法は右にいうブジー法と薬物使用法の併用に外ならないことが認められる。ところで、原告らは被告の施術方法によれば花子の子宮頸管の拡張(開大)は不十分なままであったといい、それは胎児が鉗子によって胴体及び頭部等をちぎりだしたことからも推測できる旨主張する。なる程原告甲野一郎本人尋問の結果中には胎児の状態につき右主張に沿うかの如き供述部分がないわけではないが、胎児の娩出状況については先に二の3で認定したとおりであり、右供述部分は《証拠省略》に照らしてもにわかに措信しがたいところであり、前記認定の花子の妊娠中絶処置の経過をみると、子宮頸管の拡張(開大)が十分になった状態で胎児の娩出はなされたものと推認できるのであり、このことは胎児が鉗子で引きだされたことにより妨げられるものではない。原告らの、子宮頸管の拡張(開大)不十分のまま胎児娩出手術がとられたため頸管裂傷又は子宮穿孔をおこし出血多量の事態を招いた旨の主張は、いずれもこれを認めるに足りる証拠はないということができる。

3  入院から胎児娩出までの全身管理懈怠(塩キ・ヒマシ油の副作用についての注意を怠っていること)の有無

原告らは第三に、被告が塩キ及びヒマシ油の副作用について十分な配慮をしないまま投与し続け、花子の一般状態の悪化を招いたうえ、娩出手術前に花子の身体検査、血圧、血色素、脈搏等の検査をしていなかったことが、花子の死亡につながった旨主張する。

塩キの薬効、致死量、常用量、副作用及び陣痛促進剤としても用いられ、ヒマシ油と併用されることにより一層有効といわれていることは先に認定したとおりであるところ、前掲甲一二号証(日本薬局方解説)によるも、右のような方法におけるヒマシ油の副作用について何ら触れられておらず、これらを総合して前記認定の被告の塩キ・ヒマシ油の併用による投与方法をみると、格別の問題があるとは到底解しえない。このことは一月一九日被告が塩キの副作用の弊害を考慮して塩キの投与を休止したことにより何らの消長をきたさない。

尤も、胎児の娩出手術前に花子の血圧、血色素、脈搏等の諸検査を被告がしていたと認めるに足りる証拠はなく、この意味で被告の娩出手術前の措置に落度がなかったといいきるには疑問も存するが、また原告らの、花子が娩出手術前手術に耐えうる健康状態にはなかったとの前提主張についても、これを認めるに足りる十分な証拠はない。尤も証人丁村太郎の証言によれば、花子は「一月一九日から陣痛がおきていたので、一睡もできなかったし、一九日の夕食も翌二〇日の朝食も食べられず、疲れた。」旨話していたことが認められるが、これと前記認定の一月一九日夕刻の花子の熱発(三八度)とをあわせ考えても、花子の健康状態が娩出手術に耐ええない程であったと速断することは当を得ない。

4  中絶術後の患者管理の懈怠の有無

第四に、原告らは被告が一月二〇日午前一一時の娩出手術終了後午後一〇時頃まで花子の診察をしていないこと、この間の花子の痛みの訴えを無視していること、花子にはかなりの出血があったのに病院側で観察体制をとっていないばかりか、血圧測定や輸血準備さえしていないこと、午後一〇時頃に被告は花子の異常事態に気づいて、それが出血性のものと気づきながら、輸血や造血剤の注射をし、血圧上昇の方法をとっていないこと、チアノーゼもひいていないのに病室を退出していること、こういう事実が結局花子の死亡を招来させたものである旨主張するので、順次考察することとする。

(一)  娩出手術後午後一〇時までの被告の管理体制

一月二〇日午前一一時頃花子の娩出手術終了後、花子は腹部の痛みを訴えたが、看護婦らにも格別異常な痛みとはうつらなかったこと、腹帯をすることによって少し痛みも止んだこと、付添いの丁村太郎もその結果安心して所用があったとはいえ病院を退出していること、花子は娩出手術後丁字帯をしてもらったが、B助産婦が腹帯を巻いた時(一二時前後頃と推認される。)も、C婦長が丁字帯の点検をした夕方五時半頃も膣口の出血状態に何らの異常も見られず、この頃まで花子の容体は順調であったこと、花子のベッドの枕許には医師、看護婦への連絡用インタホーンが備え付けられているところ、花子は呼び出しをしたことはないが、花子に殊更呼び出しをする元気もなかったわけではないこと等の事実が認められ又は推認されることは前記したところより明らかであるが、花子が寒気をA看護婦に訴えたのが同日午後九時半頃であったこと、同看護婦が右訴えに応じて湯たんぽの湯を入れかえようとして病室に行ったとき花子にチアノーゼ様症状がでているのに気づき、びっくりしてその旨を被告に連絡したので被告は早速花子を診察したが、それが同一〇時頃であったこと、従って同日午後五時半頃から九時半又は一〇時頃までの四時間余の間に花子の容体は急変したことになるわけであるが、その間医師、看護婦(当日の宿直看護婦はA一人だけ)が娩出手術患者である花子の容体を注意深く観察していなかったとすれば、被告側の患者に対する管理体制が十分であったといえるか疑問としなければならないところ、被告側のこの点についての立証はない。中期妊娠中絶の危険性がかなり高いこと前記のとおりであること、一般的に手術後の患者の容体の急変はよくみられるところであり、しかも花子には付添人はその間誰もいなく、このことは被告側も十分知っていたと認められること等に思いをめぐらすと、四時間余の間にわたり、患者をベッド枕許にあるインタホーン利用にまかせきりにし、医師、看護婦らによる看視、観察をしなかったことは、看者側にまかせきりの無責任体制であり、医院側と看者側という専門家と素人の差を考慮しない杜撰なあり方と非難されてもやむをえない。(尤も、これが花子の死亡と因果関係があるかどうかについては後述する。)

(二)  午後一〇時以後翌朝三時二〇分(花子死亡の確認時)までの被告の管理体制

(1) 原告らは花子の容体が急変していることの連絡をうけた被告の応急措置は、娩出手術後の弛緩出血が続いた結果貧血性のチアノーゼ、脱水症状に陥っていた花子に対して不適切であった旨主張するが、原告らの右立論は花子に弛緩出血が続いて貧血症状に陥っていたことを前提にしているものである。

しかしながら、《証拠省略》によれば本件中絶処置により排出された胎児は身長一〇ないし一二cmであった事実が認められるところ、右事実に更に花子が分娩室へ入れられた時には胎児の片足が膣口から少し出ていたとの前記認定事実及び妊娠五ヶ月初期の胎児の身長は一〇ないし一七cmであり膣の長さは普通の状態で約七cmであるという経験則上明らかな事実を併せ考えると、被告が鉗子で胎児をはさんで引き出したことによって花子の子宮壁が損傷された可能性はきわめて少ないと思料されること、C婦長が二〇日午後五時半頃花子の丁字帯内の汚れの検査をした際には綿花が汚れていなかったとの前記認定事実、更に証人Bの証言により認められるところの、同証人が花子の死後その丁字帯を検査した時にもいわゆる後出血はなく、被告が花子に丁字帯を使用させたのは出血がひどいためではなく汚物交換がスムーズにできるという利点があるためであること等の事実に鑑みると、弛緩出血の存在は非常に疑わしいといわざるを得ないところ、他にこれを認めさせるに足りる十分な証拠もない。

そうであれば、弛緩出血の継続を前提にする原告らの右主張(応急措置の不適切)は前提において失当といわざるをえない。

(2) そこで最後に被告が応急措置を施した後の被告のとった看視体制が十分であったか否かという原告らの主張を検討する。

花子の容体の急変を知った被告が二〇日午後一〇時頃から応急措置をとった結果、翌二一日午前一時頃にはチアノーゼは存続したが、冷感、腹痛等はなく、意識は明瞭で、七〇―四〇と低下傾向を示していた血圧も九〇―四〇と回復の傾向にあり、花子が危機状況を脱したと判断した被告は、後は花子の経過を見ることにし、リンゲル液のびんを新たなものと交換したうえで、病院からの連絡でかけつけて二〇日午後一一時頃以降付添っていた丁村太郎にリンゲル液がなくなったら連絡するようにと告げてA看護婦と共に病室から退去したこと、その後丁村太郎が寝入ってしまって約二時間後の二一日午前三時頃呼吸を停止している花子を発見したことは先に認定したとおりである。しかるに、チアノーゼが、一般には呼吸障害又は循環障害によって酸素が少なく炭酸ガスが多く含まれた血液が体内を循環することを原因とし、呼吸障害によるものに呼吸気道の炎症(気管支炎など)、肺炎、肺結核などがあり、循環障害としてはショック、先天性心疾患などでみられるのであり、チアノーゼが長時間継続すると重大な結果をも招来しかねないことは経験則上知られているところであるから、花子のように、応急措置の結果一応危機状態は通りこしたとしても、チアノーゼが存続している以上、いつ容体の急変が再来するかわからないのであるから、病院側としてはその後の看視体制には遺漏なきを期すべき義務があるといわなければならない。本件のその後の経過からみれば、被告が危機状態を脱したと判断して病室を退出した際のその判断自体にむしろ問題があるようにも思われるが、その点はさておくにしても、二一日午前一時頃被告とA看護婦は病室に花子と丁村太郎二人を残してひきあげ、その際二本目のリンゲル液を花子に注入中であったのに、リンゲル液がなくなった時には連絡するよう丁村太郎に注意しただけであり、同日午前三時過ぎに目をさました丁村太郎が呼吸停止している花子を見つけて連絡するまで約二時間も何の看視体制もとっていなかったこと前記認定のとおりである以上、午前一時以降の被告の患者に対する管理体制に注意義務懈怠のそしりは免れない。(これと花子の死亡との因果関係の問題については後述する。)

5  被告の任務懈怠と花子の死亡との因果関係

(一)  被告の任務懈怠

前記したところを要約すれば、花子の妊娠中絶術から死亡に至る過程で、医師たる被告には大別して、①胎児娩出手術以前の段階で、花子の身体状況につき一般的な血圧、血液、脈搏、尿検査等を懈怠した過失と、②娩出手術終了後花子の容体の悪化を病院側が知るまでの一月二〇日午後五時半頃から九時半頃又は一〇時頃までの四時間余にもわたって患者看視体制を怠った過失及び③花子に対する応急措置を施して一応危機状況を脱した翌二一日午前一時から花子の死亡を確認した同三時過ぎ頃までの約二時間にもわたって患者看視体制を怠った過失の三つが一応指摘できる。

(二)  問題の所在―その一(花子の死因との因果関係)

そして、現段階における問題が、被告の右過失と花子の死亡との間に因果関係が見出せるか否かにあることも明らかである。よって按ずるに、花子の死因が被告により血液循環不全による心臓麻痺と判断されたが、そのよってきたる所以は被告にも見当がつかず(被告も本件訴訟において確たる証拠に基づいて花子の死因を論じているのではない。)、被告は花子の遺体の剖検を希望したにかかわらず、原告らの拒否するところとなったことは前記認定のとおりであり、原告ら主張の死因を認めるに足りる証拠もないことは前記した。そこで、結局本件訴訟における双方の立証にも拘らず、花子の死因を右以上に遡って詳細に確定しえずに現在に至っている。そして、本件においては右に認定したような被告の過失が存するにしても、これが花子の死亡と因果関係があるかどうか軽軽しく推認することも許されない。けだし、被告は遺体の解剖によってあるいは自らの診療行為と花子の死亡との間に関連のないことを明確にしうる機会を有していたものであり、原告らにおいてその機会を奪ったことを否定できないからである。かかる意味あいでは遺体解剖を原告らが拒定したことにより、被告の過失との関係で花子の死因を明確にしえない不利益を原告らが負担するのは止むをえないというべきである。

しかし、このことは本件において原告らの請求がすべて失当として棄却されることを意味するものではない。殊に、原告らが花子の遺体解剖を拒否したのは、花子の遺体を切りきざむことの痛ましさを理由にしていたこと前記のとおりであり、実父母の原告らが花子の死亡直後遺体解剖を拒否した右心情には、無理からぬ面も否定できないことにも思いを致すとき、右の理は一層妥当性を有する。そのわけは以下のとおりである。

(三)  問題の所在―その二(期待権の侵害)

診療契約における債務不履行としての因果関係立証のレベルでの問題としては、ある不行為の一つ又は数個(本件では前記した被告の三つの不作為による過失)とある結果(本件では花子の死亡)との因果関係を積極的に認定しえないとしても、ある不行為の一つ又は数個(本件では不作為による過失)さえなければ、即ち十分な患者管理のもとに診察・診療行為さえなされていれば、ある結果(本件では花子の死亡)も生じなかったかもしれないという蓋然性がある以上、十分な患者管理のもとに診察・診療をしてもらえるものと期待していた患者にとってみれば、その期待を裏切られたことにより予期せぬ結果が生じたのではないかという精神的打撃を受けることも必定というべく、右にいう患者の期待(これを期待権といってもよい。)は、診療契約において正当に保護されるべき法的権利というも過言ではない。そうである以上、右期待を裏切られた場合には、それを理由に慰藉料の請求のみは可能となる理であり、その具体的判断(請求権の存否と額)の為には、過失と結果の具体的内容、蓋然性の程度(過失と結果との間に、何らの関連性も見出しえないときどう考えるかは一つの問題であるが、本件で特に考慮すべきことでもないから、これについては触れない。)につき詳細に検討されなければならない。本件についてこれをみるに、前記した①の過失(手術前の血圧、血液、脈搏等の検査の懈怠)さえなければ、花子が危機状況に陥って血圧が七〇―四〇と低下傾向を示し、応急措置を施された後それが九〇―四〇と一応の回復状況を示したとしても、それがどの程度の病状の悪さ加減を意味するものかの目安を把握でき、応急措置の程度、方法につき何らか益するところがあったのではないかと解されるのも当然であり、又②の過失(娩出手術施行後の患者看視体制の懈怠)と③の過失(危機状態を応急措置により一応ぬけだしたと思われた後の患者看視体制の懈怠)は患者にとって甚しくその期待を裏切るものであり、花子の容体の急変を早期に発見し、早期に応急措置をとることにより花子の死という事態を避けえたのではないかという蓋然性も一概に否定しえないところである。早期発見、早期治療という医学の鉄則に鑑みるとき、その感を一層深くする。尤も、早期発見、早期治療の観点からいえば患者側にも全く責任がないわけではない。即ち、二〇日の午後五時半以降九時半頃又は一〇時頃までの間に、容体が悪化したのであれば、花子も枕許のインタホーンを利用して被告側にその旨連絡すればよかった(花子が連絡できる健康状況になかったとはいえないことは前記した。)のに、それを怠っており、翌二一日午前一時以降は丁村太郎が付添っており、被告から看視を委ねられていた(二本目のリンゲル液を注入中であり、これがなくなったり、何かあったら連絡して欲しいとの被告の伝言は、花子を看護してほしいとの趣旨が含まれていると解するのが、それまでの花子の容体の推移状況から推して当然であろう。しかし、この点についての被告の指示が的確になされたとも認定できない以上、このことをあまり重要視するのも当を得まい。)にもかかわらず、すぐ寝入ってしまったことは、看護に落度があったと非難されるべき点があることも否めない。しかも、丁村太郎と花子との関係が前記認定のとおりである以上、丁村太郎の過失は花子側の過失として評価されるのが相当である。

叙上の点(過失相殺の考え方を含む。)を総合考慮すれば、花子が前記期待権を侵害されたという債務不履行により被った精神的打撃を慰藉するには一〇〇万円をもって相当と思料する。(尚、原告らは生命の侵害を損害として主張しているのであるが、右期待権の侵害を損害と解して慰藉料請求を一部認めることは何ら弁論主義に違背するものではない。)

四  まとめ

1  原告両名が花子の実父母であることは前記したとおり当事者間に争いがなく、花子には他の相続人がいないことも弁論の全趣旨により明らかであるから、花子の被告に対する前記慰藉料請求権は相続により原告両名に各二分の一(五〇万円)宛承継されたことになる。

2  なお、本件訴訟の全過程をつぶさに検討すれば、被告が応訴して争ったのにも無理からぬ面があることも否定できない以上、原告両名の本件弁護士費用につきその賠償を求めることはできないと解するのが相当である。

3  前記した債務不履行に基づく慰藉料請求権は期限の定めのない債権であるから民法四一二条三項に従い催告によって遅滞に陥いると解すべきであるが、本件では本訴状の被告送達によって右催告がなされたと解される。そして右送達日が昭和四八年一〇月二三日であることは本件記録上明らかであるから、その翌日より被告は遅滞に陥いることになる。

4  よって、原告両名の請求は、被告に対し各五〇万円宛とこれに対する昭和四八年一〇月二四日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから正当として認容し、その余は失当として棄却すべきものである。よって民訴法八九条、九二条、九三条を適用して主文のとおり判決する(尚、仮執行の宣言を付するのは相当でないと考えるので、その申立を却下することとする。)。

(裁判長裁判官 権藤義臣 裁判官 簑田孝行 古賀寛)

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